チュニジア

カルタゴの廃墟と聖地カイラワン


 紀元前九世紀、薄幸の王女ディドーに率られたフェニキア人は、船でチュニジアのカルタゴ
 に着き、ここに植民地を建設した。彼らはシシリー島やイスパニアにも進出し、西地中海質
 易の覇権を握った。ところが紀元前三世紀の中頃から、口ーマのカルタゴ侵略がはじまり、
 三回にわたってポエニ戦争が行われた結果、町のすべては破壊され、生き残りの五万人は
 みな捕虜となった。こうしてカルタゴはまったく滅亡したが、その後ここを占領した口ーマ人は、
 六十キロも離れたザグワーンから水道橋で水をひき、カルタゴの町に巨大なアントニヌスの
 共同浴場を建設した。そのほかエルジェムの円形闘技場(コロツセウム)、オーデュスの神殿
 など多くの石造建薬物を残している。それらはイタリア、トルコ、レバノンなどのローマの遺跡
 と多くの共通点をもち、口ーマ人の土木建築技術のすばらしさを物語っている。
 七世紀初めにエジプトに入ったイスラム軍は、そのまま西進を続け、六七〇年にチュニジアの
 カイラワンに入り、ここに大モスク(ジャマー・シディ・オクバ)を建設した。それ以来、カイラワン
 は長い間、チュニジアの首都として栄えた。ここは九世紀にアグラプ朝のもとで全盛期をむか
 えたが、やがて首都の座をチュニスに奪われた。しかしカイラワンの大モスクは、長くスンニー
 派イスラム教徒の聖地として知られ、メッカ、メディナ、イェルサレムについで、第四の聖地とし
 てこの地方のムスリム(イスラム教徒)の巡礼地となった。イスラム軍はここからさらに西進し、
 アルジェリア、モロッコを経て、七一一年にはイベリア半島に上陸していったのである。
 八〜十四世紀の間、シルクロードの西端は、まさしくこの地方に達していたのである。


1  エルジェムの円形闘技場。ローマ人がこれを建てた頃、ここはオリーブの森に囲まれた美しい町だったという。
2

 六七〇年、イスラム軍がこの地に侵入すると同時に建てられたカイラワンの大モスクの力強い尖塔。


中央アジアから地中海へ
ソ連 トルキスタン チムール大帝の都サマルカンド ブラハ汗国の王城址 ヒワ汗国の旧都
アフガニスタン 文明の十字路 バーミヤンの谷 聖地マザリシャリフヘ
ガズニ朝の遺跡 ヘラートの城砦 幻の理想郷ヌリスタン
イラン マシャドからシラーズへ アケメネス朝の大宮殿ベルセポリス ナクシュ・イ・ルスタムとパサルガダエ
花の都イスファハン ビストゥンの磨崖碑
トルコ アナトリア高原の遺跡 巨大なロ-マの遺跡エフェソス 欧亜の架け橋イスタンブール 
レバノン バールベックの廃墟とシドンの海の城
エジプト ヘレニズムの古都アレキサンドリア フスタートからカイロヘ カイロ周辺の史蹟
古都テーべの栄華を語るルクソール
チュニジア カルタゴの廃墟と聖地カイラワン
モロッコ 生きた中世都市フェズ  
スペイン イスラムの都、コルドバとグラナダ 難攻不落の要塞トレド
遥かなる西域 南海の仏の道