漢人が開拓した高昌故城 |
高昌故城はトルファ,ンの東南約四十キロ、火焔山人民公社にある。故城は外城、内城、宮城と三重からなり、 外城の周囲は約五キロ、総面積二百万平方メートルの広さをもつ。 前漢は元帝の初元元年(紀元前四八年)、この地方の勾奴を駆逐すると、ここに高昌壁を設け屯田した。 その後多くの漢人が移住し、五胡十六国時代には河西政権の高昌郡が経営された。そして時には柔然の支配 も受けたが、五世紀中頃からは沮渠(しょきょ)、カン、張、馬氏などの漢人が引き続き国王となり、四九八年馬 儒の家臣であった麹嘉が国王になると、ようやく安定し、八代百四十年にわたって麹氏高昌国が成立した。 当時の生活ぶりはアスターナ古墳出土の古文書によって研究されつつある。 有名な玄奘がインドヘ行く途中、立ち寄ったのも、この王国の末期の王麹文泰に招かれたためである。 六四〇年、唐は高昌国を滅ぼし、ここに安西都護府を置いた。今世紀初め、ル・コックがここを調査した時には、 宮殿・官庁址のほか、マニ教、ゾロアスター教、景教(ネストリウス派のキリスト教)寺院があったというが、現在は はっきりしない。 |
1 | 高昌故城 |
2 | 外城の南西部にある大寺院址は、一万平方メー トルの広さがあり、近くに二つの坊(市場と職人街)の跡がある。 |