私はいままで河西回廊を三回旅行した。昭和五十五年秋、敦煌を訪問した時は、行きは蘭州から酒泉
まで飛行機で行き、酒泉から敦煌まではバスだった。帰途は敦煌北方の柳園からほとんど一昼夜蘭新
鉄道に乗って蘭州に帰った。キレン山脈の雪山が一日中美しく見え、河西地方のオアシスの縁に考え
させられた。
昭和五十七年に蘭州からカシュガルに行った時も、往路は酒泉経由で敦煌にむかった。
このように敦煌への旅は、いつも酒泉が中継点となる。昭和五十七年秋、敦煌に空港が完成し、現在
は蘭州から飛行機で直行できるようになった。
酒泉は河西地方でもっとも重要なオアシスで、前漠の武帝もこの地方に進出すると、まず酒泉に郡を
設置した。
その他の張掖・武威・敦煌三郡は、やや遅れて設置されたといわれる。
酒泉は河西地方の要衝として、古くから重視されていたのである。このことを象徴的に示すのは、町の
中央にある鐘楼で、その四面には「東は華巌を迎え、南はキレンを望む。西は伊吾(ハミ)に達し、北は
沙漠に通ず」と刻まれている。
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