西陲の地カシュガル

  昭和五十七年八月、私はようやくカシュガルを訪れることができた。志を立ててから三十年、 
 ひたすら西陲の地に憧れて、ついにカシュガルに達することができたのである。しかし実際の
 旅は簡単で、ウルムチからわずか四時間の空の旅だった。カシュガルの賓館はなかなか立派
 な建物で、広い敷地内にしゃれた洋館が何軒も立っていた。
 その日はまずウイグル人の家庭訪問をし、夕方、香妃廟へ行った。香妃はかつてイリを支配し
 ていた白山党のホージャ・ジハーンの妃であった。彼女は絶世の美女で、身体からいつも芳香
 が漂っていたという。清の回部征服の後、香妃は北京に連行されたが、乾隆帝の意に従わず、
 怒った皇太后から死を賜わったといわれる。遺骸は三年がかりでカシュガルに送り返され、こ
 のホージャ一族の廟に安置されたのである。
 カシュガルの中心はエイティガ-ル・モスクで、その周辺には多くの職人街が立ち並ひ、人々は
 力強く生きていた。そこでは昔ながらの手工業が幅をきかせていた。



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1  十七世紀にカシュガル地方を支配したホージャ一族の廟。香妃廟ともいう
2  香妃廟内にある香妃の墓。(右から二番目)
3  香妃廟の境内に集まったウイグル族の子供たち
4  カシュガルの中心にあるエイティガール・モスク、、二の地方のイスラム信仰のメツカである。


  エイティガール・モスクの周辺には、鍛冶屋、ブリキ屋、金具屋、木工屋、パン屋、香料屋、服屋、床屋、宝石屋、
など数多くの職人の店が並び、活気を呈している。昔ながらのハンドメードの店ばかりだ

  カシュガルは十九世紀以来、イギリスとロシアが領事館を置き、新疆でもっとも重要な町となったが、 
 ここはタリム盆地でもっとも早くイスラム化したためか、仏教遺跡なども乏しい。
  まず市内には班超(はんちょう)が拠った疏勅城(カシュガル)の跡といわれる土塁があるが、わずか
 高さ三メートル、長さ十五メートルほどしか残っておらず、あまりにもわびしい遺跡だ。もとは一辺八百
 メートルあったが、清の乾隆帝によって破壊されたという。カシュガルの東三十五キロには、カラハン朝
 の城北といわれるハンノイ遺跡があり、るいるいたる巨大な廃墟だが、もう一つとらえ所がない。
 ただ土塁の跡がいたる所に広がっている。また市内から北方へ十八キロほど進むとチャクマック河があ
 り、その岸辺に三仙洞とよばれる洞窟がある。ここはこの地方唯一の仏跡だが、内部はかすかに壁画
 の跡を残すのみである。


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1  カシュガル北方のチャクマック河の河岸段丘にある三仙洞。この地方に残る唯一の仏跡である。
2  十世紀に二の地方をイスラム化したカラハン朝の跡といわれるハンノイ遺跡。
3  わずかに長さ十五メートルほどの土塁を残す疏勒城の跡。エスクサール城壁。

遥かなる西域

仏教熱の燃焼雲岡石窟 静謐な微笑をたたえる竜門石窟 栄華をきわめた古都、長安
シルクロードの関門、蘭州 黄河に影映す炳霊寺石窟 河西回廊の要衝、酒泉
西端の砦、嘉峪関 花ひらく敦煌 盆地の中のオアシス、トルファン
漢人が開拓した高昌故城 ベゼクリク千仏洞とアスターナ 天然の要塞、交河故城
ウルムチから天山へ 天山の遊牧の民、カザフ族 西域南道のオアシス、ホータンと民豊(ニヤ)
ニヤ遺址への旅 西陲の地カシュガル
中央アジアから地中海へ
南海の仏の道