栄華をきわめた古都、長安

 シルクロードの東側の出発点は、中国の古都長安(いまの西安)であった。長安の名は漢の高祖劉邦がここを都
 とした時に はじまるが、周の鎬京(こうけい)以来、十一代の王朝がここに都を置いた。
  漢代にひらけ、唐代になって最盛期をむかえたシルクロードは、ここを起点として遠くペルシアを経てローマに
 達していた。
  古くここはタブガチの都クムダーンとよばれ、紫髯緑眼(しぜんりょくがん)のソグド人が次々にラクダを引きつれ、
 はるばる西アジアから流砂をこえてやってきたのだった。またアラプ軍がササン朝を滅ぽすと、その遺民たちは王
 子らと長安に逃れ、ここにイラン文化を流行させた。則天武后(そくてんぶこう)や玄宗と楊貴妃らが活躍した頃の
 ことである。
  その項の長安は華やかな国際都市で、日本や渤海をはじめ、東アジア各国の遣唐使が訪れ、それとともにシル
 クロードを東漸したイラン文化は、東アジアの各地にひろまったのである。

  


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1  慈恩寺の境内に残る大雁塔から見おろす と、春は霞の都大路がはるか北方にまっすぐ伸びている
2  慈恩寺の大雁塔六五二年、唐の高宗は玄奘がインドから持ち帰った経典を保存 するため建立した,
3  秦始皇帝陵。始皇帝は天下統一の後、七十万人の囚人を動員して豪壮な墓をつくった。
4  華清池。周以来代々の皇帝に愛用された驪山(りざん)北麓の温泉。白居易の長恨歌で名高い。

 長安は明代に西安と改名し、その規模も唐代の六分の一に縮小された。今日残る唐代の建物としては、大雁
 塔と小雁塔のみである。
 小雁塔はもと十五層あったが、十六世紀に地震で二層が崩落し、いまは十三重塔で高さは四十ニメートルである。
 長安の東郊には玄宗と楊貴妃のロマンスで名高い華清池(かせいち)がある。
 そこから数キロで墳墓としては世界最大の始皇帝陵があり、その東一・五キロに六千体の式士俑・陶馬を出した
 兵馬俑坑(へいばようこう)がある。

 


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1 小雁塔。則天武后が建てた薦福寺の境内にあり、入竺僧義浄ゆかりの塔。
2 西安南郊の終南山麓にある興教寺の玄奘塔
 長安の歴史と文化をもっともよく物語っているのは、その西北郊に広がる漢・唐代の皇帝たちの基とその出土品
 である。
 漢の武帝の茂陵(もりょう)と霍去病(かくきょへい)の墓、唐の太宗の昭陵(しょうりょう)とそのおびただしい陪塚
 (ばいちょう)(臣下の墓)、高宗と則天式后の乾陵(けんりょう)と永泰公主らの陪塚など、いずれも古代中国文化
 の壮麓さに驚かされる。
 なかでも乾陵は梁山を基陵とし、内城壁の朱雀門から乳頭山までの約五百メートルに広い墓道があり、その両側
 に高宗の葬儀に参列した諸外国の王や使節の石像六十一体、文武の重臣十対、石馬が五対、駝鳥が一対、有翼
 馬(ペガサス)一対が立ち並んでいる。駝鳥は西アジア以来、王権の象徴とされており、ペガサスとともに西方文化
 の伝来をよく示している。永泰公主墓近くの乾陵博物館の展示品もすばらしい。

 


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1  墓道の入り口付近から乾陵(梁山)をみる。 道の両側に文武の重臣が並び、左手に穴居 住宅が見える
2  ペルセポリスのペガサスとの脈絡を思わせる乾陵の有翼馬
遥かなる西域

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