花ひらく敦煌


 敦煌は河西地方の最西端にある町で、古来、シルクロードの要衝であった。長安からカシュガルまではほぼ三干
 キロたが、敦煌までは約干五百キロで、だいたい半分になる。年間雨量三十ミりで、ここはもうまったくの西域の
 オアシスなのだ。いまの町はかつての沙州故城の東三キロにあり、人口は約三万五干人である。
 敦煌の東南二十五キロに有名な莫高窟千仏洞がある。かっては大泉河に洗われた鳴沙山の断崖に、いま長さ
 十六キロ余にわたって四百九十二の窟が連なっている。紀録によると、ここは紀元三六六年に造窟がはじまり、
 以後十四世紀まで造営が続けられ、最盛期には干をこす石窟があったという。
 現在石窟内にある塑像は約二千で、壁画は千四十五幅、その壁画を一メートル幅で並べると、全長四十五キロ
 に達する。ここも昭知五十五年秋まではひどい招待所だったが、いまは立派な賓館ができ、バスも快適なエアコン
 付きとなり、空港も新設された。
 敦煌の南部にはオアシス月牙泉があり、西北八十五キロには玉門関、西南六十五キロには腸関があり、その西
 は広漠たる砂漠である。


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1  莫高窟の前を流れる大泉河。左手の森の奥が千仏洞で、彼方に見えるのは僧院と工人房
2  鳴沙山の砂に囲まれた月牙泉は、かつて涸れたことのない聖泉長さ二百メートル、 幅三十メートル


 四世紀から十四世紀におよふ莫高窟の美術は、早期、中期、後期の三期に分かつことができる。早期は四世紀後半
  から六世紀後半まで、五胡十六国九窟、北魏二十三窟、西魏二窟からなる。この時代の塑像は、二百五十九窟の座
  仏、二百七十五窟の交脚弥靭のようにグフタ美術の影響か強い。
  壁画には本生図や中国の神話伝説が描かれている。
  中期は六世紀末から十世紀初めまで。塑像は写実的となり、人物もふくよかになる。とくに盛唐期の四十五、
  百五十九、百九十四、三百二十八諸窟の塑像の美しさは言語を絶する。
  壁画は経変(経典を絵にしたもの)が主体となり、供養者は扱いが大きくなる。百三窟の「維摩経変(ゆいま)」、
  百七十二・二百十七窟の「西方浄土変」、四十五窟の「商人遇盗」、百五十六窟の「張議潮・宋国夫人出行図」、
  百五十九窟の「吐蕃王供養図」など、いずれもすばらしい。
  後期は十〜十四世紀まで。この時代には供養者像はますます大きくなり、于ゥ王や西夏王の像が見られ、宋代の代表
  として六十一窟の「五台山図」がある。



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1  大泉河の手前から見た莫高窟全景。北大仏殿の上部が見え、手前に高憎の仏塔が立つ。
2  莫高窟の象徴は七層の北大仏殿で、内部には高さ三十三メートルの大仏(六九五年造営)がある。
3  二百七十五窟の交脚弥勒菩薩像。現存する莫高窟最古の塑像である。上半身はほとんど裸体で、腕にまとった衣文はギり
 シア風といわれる。
4  三百二十八窟の迦葉(かしょう)と半倚座の脇侍菩薩像。その右に片膝を立てて座る供養天。盛唐期の円熟した五尊像である。
 莫高窟はすでに触れたように、四世紀から十四世紀頃までの多種多様な壁画と仏像で飾られている。そこには多く
 の西域・中国仏教文化の影響がみられ、それぞれの時代の貴族・民衆の生活が窺われて興味深い。これほど多く
 の壁画や塑像が、そのままの形で残っている石窟は、世界中でここしかないのである。
 莫高窟の名がさらに有名になったのは、今世紀初め、ここの第十七窟(蔵経洞)から、おひただしい古文書が発見
 されたためである。
 これらの古文書はスタインやベリオによって国外に持ち出されたが、いまは世界の学界に紹介されつつある。四万
 点近いその古文書の研究によって、唐代の敦煌の土地制度や水利、寺院、社会、経済の状況が明らかになり、敦煌
 学という新しい東洋学の一分野が開拓された。
 今日では単に古文書の研究のみでなく、現地を見て実際に文書と石窟との総合研究を試みる人も現れるようになった。

遥かなる西域

仏教熱の燃焼雲岡石窟 静謐な微笑をたたえる竜門石窟 栄華をきわめた古都、長安
シルクロードの関門、蘭州 黄河に影映す炳霊寺石窟 河西回廊の要衝、酒泉
西端の砦、嘉峪関 花ひらく敦煌 盆地の中のオアシス、トルファン
漢人が開拓した高昌故城 ベゼクリク千仏洞とアスターナ 天然の要塞、交河故城
ウルムチから天山へ 天山の遊牧の民、カザフ族 西域南道のオアシス、ホータンと民豊(ニヤ)
ニヤ遺址への旅 西陲の地カシュガル
中央アジアから地中海へ
南海の仏の道