ニヤ遺址への旅

  昭和五十五年五月九日、私はNHK日中共同取材班とともに、民豊県からニヤ遺址にむ 
 かった。私たちは九台のジープに分乗し、二台のトラックに機材・食料をのせて出発した。
  民豊県北方約九十キロの大馬扎(だいまさつ)人民公社までは、ジーフで入れるとのこと
 たったが、物凄い悪路で、とうとうジープは途中から引き返し、後は二台のトラックで前迫した。
  その夜は大馬扎の牧場で一泊し、翌日、いよいよ装備を積み、ラクダでニヤ遺址にむかっ
 た。キャラバン隊の総数は二十九人。ラクダは五十八頭。テント、食料、装備のほか、水二ト
 ン半がポリタンクで運ばれた。ラクダに乗るのは、長年の夢たったが、ラクダは立つ時と座る
 時か危険で、私はいの一番に振り落とされてしまった。大馬扎からニヤ遺址までは、わずか
 三十キロほどだが、ラクダ二日の行程だった。しかし砂漠の中の遺跡探しはそれほど簡単で
 なく、途中で道に迷ってしまい、われわれは三日目にやっと日的地にたどり着くことができた。



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1  ラクダに乗るのは、なかなか楽ではない。とくに乗る時と降りる時が難しく、歩行中、その背は前後左右に動揺する。
2  砂漠の中の仮泊キャンプ。途中我々は一泊し翌日またニヤ遺址を目指して北上した。
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 キャラバンの出発で一番面倒なのはラクダの積み荷だ。乱暴なラクダは暴れてなかなか荷をつけさせない。
 途中で逃げ出すラクダも居る。
  二日日に道に迷ったわれわれは、その夜、道案内人たちの努力でやっと目的地ニヤの仏塔址を探し
 あて、三目日の五月十二日昼頃、ようやく仏塔北に到着した。ニヤの遺跡はだいたいこの仏塔北を中
 心に、南北十キロ、東西五キロほどの範囲に散在しているのである。
 私たちは、N1,N2,N3,N4の四遺跡を取材することとなり、まずN2から撮影を開始した。
 N2はいくつかの住居址からなる小集落だが、床面の露出した住居址が多く、それぞれの住居に若干の
 上下差があり、一メートル前後の砂の堆積はあるにしても、もともとこの辺りの景槻はあまり著しい差は
 なかったのではあるまいかと思われた。
 翌十三日は午前中にN3,N4午後N1を踏査した。N3は地方長官の邸宅跡と思われる遺跡だが、内部
 には家具などの遺物が多数散乱していた。
 ニヤにはまだ未発掘の適跡も多い。ニヤ遺址はもう一度、現代的な層位発掘法でじっくり再調査すべき
 たと思った。


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1  N3は地方長官の邸の跡といわれる広大な遺跡である。
2  N1はスタインが初めてカローシュティー文書を発見した遺跡で、柱や壁の一部が残っている。
3  ニヤ遺址のほぼ中央にある仏塔址。 宝探しの人々の手で無惨に破壊されている。
4  N3のほぼ中央付近にある炉址。民豊ではいまもこのような炉を使っているという。

遥かなる西域

仏教熱の燃焼雲岡石窟 静謐な微笑をたたえる竜門石窟 栄華をきわめた古都、長安
シルクロードの関門、蘭州 黄河に影映す炳霊寺石窟 河西回廊の要衝、酒泉
西端の砦、嘉峪関 花ひらく敦煌 盆地の中のオアシス、トルファン
漢人が開拓した高昌故城 ベゼクリク千仏洞とアスターナ 天然の要塞、交河故城
ウルムチから天山へ 天山の遊牧の民、カザフ族 西域南道のオアシス、ホータンと民豊(ニヤ)
ニヤ遺址への旅 西陲の地カシュガル
中央アジアから地中海へ
南海の仏の道